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さらば涙と言おう、友達よ泣くんじゃない(森田健作)1971年?   [1970年代の曲]

 年末以来、先週の日曜日にいつものカラオケメンバーと
カラオケへ行ったら、Mさんがおれは男だ!の主題歌で
森田健作さらば涙と言おうを歌った。

何十年ぶりに聴いた気がした。
これは恐らく50歳代以上ならだれでも知っている青春ドラマの主題歌。

当時、兄貴がどんぴしゃの世代でビデオ録画ができない時代、
この放送時間帯は占領されていた。
だから仕方なく見ていたが私にはもうひとつ面白くなかった。

と言うのは当時、私は肩の辺までかかっているヘアースタイルの高校生が
剣道なんてやってても上手になれない、
と近所のある爺さんが言ったのを真に受けて
訳が分からない考え方をしていた。

剣道や柔道をやる人はスポーツ刈りでもっとシャッキッとしていなければならないと思っていた。

でも今、この森田健作主演のおれは男だ!の、
シチュエーションは最近女子高から共学高校に変わったばかりの高校に
1人の学生(森田健作)が転校して、
なよなよした雰囲気の男子学生を活気づけよう、
とかの意味合いもある番組だったとわかった。

よしかわみさお(よしかわくん!と番組内では呼ばれていた)こと早瀬 久美について
年上のお姉さんだけの印象だったが、
最終回だった?か山小屋から?森田健作よしかわみさおをおんぶして
下界へ降りてくるシーンには『格好いいなあ』と思った。

最終回はよしかわみさおがアメリカ?へ留学していくシーンだったと思うが
当時、私は本当に彼女がアメリカへ行くのでおれは男だ!が終ってしまうのだ、
と思っていた。

当時、私はよしかわくん!の物まねをあちこちでやっていた。

カラオケメンバーでの会話では
友達よ泣くんじゃないも懐かしいなあと言う意見が出た。

Mさんは63歳。おれは男だ!のどんぴしゃ世代、
当時ひざ上まで塗料のタンクに浸かって
金属表面を色付けと言うか塗布加工する臭いのきつい所で
アルバイトしていたそう。

体に悪く今ならまず機械でできるはず。
臭いがきつく頭がくらくらしそうな気分を
社員に伝えたら(訴えたら、
その時に社員からはニタニタ笑いながら
友達よ泣くんじゃない』とまことにしょうもない
ギャグを言われたそうでこの歌を誰か歌ってくれたら
あの塗料のタンクを想い出す、と言っていた。

随分きついバイト先だった様子。
でも結局その話が長く、聞き疲れて誰も歌わずだった。

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愛が生まれた日(藤谷美和子・大内義昭) 1994年  [1990年代の曲]

 つくづく良い歌だったなあ、と思う。

私は結婚したものの仕事だけが一日、の状態になっていた。
夜は9時か10時頃ある程度仕事が終わったら
次は大阪はミナミ、や三宮へ飲みに出かけるという
パターンで家族の事はほったらかしだった。

私の職場では営業マンはみんながみんながそうで仕事でフラフラになり
また飲んで歌ってフラフラで帰宅する日が続いていた。

 その毎日の中で5月の連休に慰安旅行があった。
これは日程的にも不人気だった。

会社全体で行く慰安旅行がある年から各部署ごとで
行く事になり喜んでいたら
私の所属する営業部隊はなぜか、
なんと工場のおばさん達と行く事になった。

これは営業と工場との友好を深めるためであったが
営業担当の事務員(全員20歳台)は反対し、
我々の中でも工場出身の私は『おばさんたちの餌食(えじき)』になる
と考えられるため反対したが行く事になった。

他の部署は全て部署ごとに行ったし食事会だけで終わらす部署もあった。

 大型バスを貸し切った。60人乗りに40人程度。
隙間だらけの車内、我々男性営業マンは
おばさん30人の接待係。
女子は関わりたくないから無視状態。
上司は工場上司と楽しんでいた。

 行き先は岡山の倉敷方面、その夜は大宴会場でカラオケ大会。
これも『我が強い』ボスおばさんとデュエット、
まさに地獄の始まりだった。

愛が生まれた日、はリアルタイムでヒットしている季節の中で
3人のおばさんと歌わされた。
愛が生まれた日を歌った後は
ほっぺたにチューをされ不快な思いと
これだけで終わってほしいと言う気持ちだった。

歌の途中で『私の顔を見なさい!』と言う強引に両手で顔を引き付けられ
上司や同僚や工場の従業員の観客達には大受けだった。

もちろん、多量のビールは飲まされた。

翌日、出社しても数日間はあちこちで
『愛が生まれたらしいな』との話をかけられた。
とんでもない、出来事で覚えている。

なんと先日、大内義昭さんが亡くなったとは
。作曲か作詞が秋元 康藤谷美和子はかわいかった。

その一緒に歌った従業員のおばさんの一人はみよこ、という名前。
もうどうでもよいが旧姓が藤田さんらしく、まあまあ似ている名前。しかし・・・・だった。

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私はピアノ (高田みづえ)1980年 [1980年代の曲]

たまたま、仕事運転中にラジオから『私はピアノ』が久しぶりに流れた。
サザンの桑田 佳祐が作曲した中で
提供した中でもトップクラスに好きな曲。
最初は原 由子が歌ってて高田みづえがカバーした形で大ヒット。

この曲はいま、もしリリースされてもヒットすると思う。

私は硝子坂でデビューした頃の高田みづえには
それほど興味がなかった。

第一印象が宮崎県出身の近所の女性に似ていた。

いつしか高田みづえが鹿児島県出身と知り、
当時はなるほど、と訳がわからない妙な納得をしていた。

この私はピアノは以前にも書いた当時のカラオケのパブ?(入場した客の前で歌う)で、
ある女子大生が完璧に歌った。

http://utaomoide.blog.so-net.ne.jp/2014-09-26   
https://www.youtube.com/watch?v=FKYcmUaKFr4   
    
あの場所でその女子大生は地味で背が小さく
最初は『あっ、歌い始めたな・・』の印象。

歌い始めてすぐに雑談していた我々の席の雰囲気を一変させた。
それは高田みづえそっくりに地味っぽく歌い
そしてこの歌の魅力に我々は酔うことが
出来たと言っても過言ではなかった。

その後、我々友だちの女子二人が『酒の勢い』で
対抗して硝子坂と言う高田みづえのヒット曲を二人で歌い、
歌詞がばらばらであったり、
一人がリズムを明確に覚えていなかったため見事にこけてしまった。

 車で聴いた私はピアノは聴きやすいし、歌いやすいし覚えやすい。
どの時代にでも好かれそうな気がする。

この様なカラオケパブ、現在は皆無で個室制になり仲間の歌声しか
聴けなくなった。それでホッとする今日この頃。

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ヘルプ!HELP! (ビートルズ)1965年 [1960年代の曲]

 私はたいてい海外の曲と言うのは一度聴いたときに
好きかそうでないか、判断してしまう。
歌詞について好きになると言うことは言葉が理解できないからまず、ない。

この曲も初めて兄貴の影響で聴いたとき、
かなり好きになった記憶がある。
スピード、テンポ、も良くビートルズの他の曲も聴きたい、
など思ったと思う。ただし、1965年の発表の曲と言うことであるが
1973年に聴いたと思われる。
どのレコード(LP)であったとか記憶がない。

その後1976年に衝撃的なヘルプ!に関しての記憶がある。
それは同じクラスの友人が試験無しでアメリカ留学
(今でいう夏休みだけの短期高校留学か)に行く事になった。

私より英語ができたわけでもなく
クラスでも抜群に賢いとかでもなくなぜか彼は行く事になった。
実は他のクラスだったが一人、女子がある留学試験に合格し
一年間行くと言う話も聞いていた。

その彼とは仲が良く、『アメリカ留学でのお土産に何が欲しい?』と
出発前に聞かれた。と言うか『ありがたいこと』に聞いてくれた。

そこで『ビートルズのレコードが欲しい』と言った。
本当はアダルトな雑誌も欲しいと言ったがまじめな彼にはあっさり却下された。

私は朝刊配達、部活動の日々、彼の帰国を待ちわびた。

彼は8月の終わりの頃帰国帰宅した。
そこでのお土産はなんと、
ビートルズファンならだれでも知っている赤盤、青盤のLPだった。
今でも大切(でもないが)に持っている。
感動のベストアルバムだった。

帰宅してもらった時彼は『日本で買ったら(  )円、しかしアメリカで
買えばそう高くはないよ』と言ったのを覚えている。

アルバイトの朝刊を束ねる時に赤盤の何曲かを鼻歌で歌っていた。
周りは何の歌か知らなかったが特に赤盤は好きだった。
なかでもヘルプ!は何度も聴いた。
今、もう一度ヘルプ!を聴いてみたくなった。

現在、レコードをくれた彼は大企業で重役?(部長とかかもしれない)と
なり悠々自適の生活を送っているがその頃もリッチだった。
その赤盤、青盤の話をする機会があったら話をしたいと思うが
東京の高層マンションに住んでいて
高齢のご両親だけ地元にご健在、年賀状だけの付き合いとなっている。

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